薬と瞑想は、同じ語源から来ている。

薬と瞑想は、同じ語源から来ている。
癒すという意味だ。
薬は体を癒し、瞑想は魂を癒す。
薬は外向きで、瞑想は内向きだ。


薬と瞑想が深い調和のもとに一緒になる時に、初めて人はトータルになる。
深い統合が求められる。
真のヒーラーは、いつも組織的な統合を考えるだろう。
身体と魂の、物質と精神の、見えるものと見えざるものとの。


薬は瞑想がなければ、不完全なままだろう。
薬が不完全だというのは、あまりにも明らかだ。
あなたは誰かを治療出来る。
しかし、もしその人が生きようとしなかったら、治療は役に立たないだろう。
薬は癒せない。
ただ助けることが出来るだけだ。
もし奥深いところで人が生きたがっていたら、薬は計り知れない助けとなるだろう。
薬それ自体は無能だ。


瞑想は生きる意志を解き放つだけでなく、あなたの永遠の生の経験をも解き放つだろう。
瞑想は死を存在しないものとする。
もし薬が瞑想により支えられるのなら、
もし全ての病院や診療所、精神医学や精神分析の院、診療所が瞑想の助けを受けたら、
とても多くのことが実に容易に実現するだろう。


マインドが病んでいても、あなたの意識は決して病まない。
あなたのマインドが発狂したとしても、あなたはただそれを観察しているだけだ。


瞑想とはその体験だ。
「私は体ではなく、マインドではない。
 私はそれら全ての観照者だ」
この形而上の体験は全体の状況を計り知れないほどに変える。


あなたを狂わせる多くのものが、ただ落ちていく。
あなたはもう同一化しない。
あなたは丘陵の上の観照者だ。
あなたは脇へ座って全てを眺める観客で あり、目撃者となる。
スクリーンに映ったフィルムを観るように、判断する必要もない。
なぜなら判断した瞬間、あなたは同化してしまう。
その途端にあなたは良いものを持ち、悪いものを捨てようとする。
あなたが完璧な目撃者なら判断しない。
何が起こるにせよ、あなたは反射する単なる鏡だ。


瞑想を少しでも学んだら、誰でもあらゆるマインドの病気から脱け出すことが出来る。
何年間も精神分析をする必要はない。
それは全く馬鹿げている。
精神分析を15年間も精神分析医を変えながら受けて来た人がいる。
しかし問題は同じまま残っている。
誰の夢も分析する必要はない。
必要なことは、夢を止める為に目を覚まさせることだ。


OSHO

The Last Testament