苦しみから逃れたい一心で悟りを目指すと、余計に苦しくなると言うのは皮肉なものです。

 

人は苦しみから逃れたい一心で、悟りを目指してしまいます。




しかし、それでは上手くいきません。




理由は2つあります。




先ず、1つ目。

それは、思考に同一化した状態から悟りを目指しても、感情の壁に阻まれてしまうからです。

はい、この図の登場です。



この図は、人の意識を頭上から見下ろしたものです。

一番外側にある無数の点が、思考です。

そこから内側に入ると、体があります。




体の内側には、感情の層があります。

そこには、今生だけでなく、たくさんの過去生でも溜め込まれたたくさんの感情があります。

それは、壁のようになり、内側にある本来の自己を覆い隠しています。

これが、人の顕在意識はわずか数%しか無く、残りの95%が潜在意識となっている理由です。

そして、苦しみの原因です。




ですから、悟りを目指して、思考から中心の空を目指して瞑想しても、この感情の壁に阻まれてしまいます。

そもそも、感情を感じることを避けた結果、感情を溜めこんでしまったので、

無意識に感情の層には近づかないようにしてしまいます。

なので、瞑想しようとしても、すぐに思考は外側のいろんなものに気を取られて、大人しく座ることさえできなかったりします。

何とか大人しく座れても、内側では思考があちこち飛び跳ねたり、いろんなことを考えてしまったりして、じっとしていません。




静かに座れてちょっと内側に入ったとしても、

瞑想が終わった途端、急にいろんなどうでもいいことを考えだしたり話しだしたり、アルコールを飲んでバカ騒ぎしたりして、
無意識に思考との同一化に戻ったりしてしまいます。






つまり、大抵の場合、悟りを目指して瞑想したとしても、ほんの表層を行ったり来たりしているだけです。

例えるなら、自由自在に泳げるようになりたいと思いながらも、プールサイドに腰かけて足先だけを水に浸けてバシャバシャ遊んでいるようなものです。

そんなことを何年、何十年続けたところで、何の進歩もありません。



悪戯に時が過ぎ、寿命を迎えます。






そして、2つ目。

稀に、覚悟と情熱があり深く瞑想して、中心の空にたどり着いたとしても、かえって大変になってしまいます。

なぜなら、中心の空に明かりが灯ってしまうからです。




表層には、溜めこまれた感情があります。

すると、中心に灯った光が、感情を現実に映し出してしまいます。




溜めこまれた恐怖によって、見るものすべてが恐怖色に染まってしまいます。

そして、恐怖を感じさせる人や状況を引き寄せます。

すると、その人や状況について感じる恐怖と、内側に溜めこまれている恐怖の両方を感じてしまい、大変になってしまいます。

中心の光が強ければ強いほどに、より強力に感情が映し出され、大変になってしまいます。




中心の空には、安らぎ・平安・静けさがあり、

外側の現実には、恐怖を感じさせられることが次から次へと起こる。

そして、どちらが現実なのか分からなくなり苦しんでしまいます。




感情は、外側に見える原因(と思えるもの)に向かって動きます。

すると、中心にいたはずの意識は、瞬く間に外へと突き動かされ、思考との同一化に戻ってしまいます。






その時、先程のあの図、意識の多重構造マップに付いて知らないと、いったい何が起こっているのか分かりません。




そして、いったいどちらが現実なのかも分からなくなります。




まるで、現実の裏側に潜り込み、出れなくなってしまったのかのように感じ苦しみます。




それは、出口のない苦しみ、終わりのない苦しみにハマってしまったのかのように感じてしまいます。





解決は、感情を癒してあげることです。

感情の壁が癒されるほどに、内側と外側を隔てるものが無くなり、

意識そのものへと戻っていき、

意識そのものが体を動かし、

意識そのものが現実を創造していくようになります。




ですから、瞑想しようとしても、なかなかうまく行かない人、

深く瞑想しすぎて余計に苦しんでいる人、

そんな人がいたら、ぜひこの記事のことを教えてあげてください。