行動もせず、考えることもせず、感じることもしない。

 

 

 

考えることほど遠くは行かないが、

 

感じることも離れることだ。

 

感じることも、ある微妙な行動だからだ。

 

神秘家は薔薇の現存の中にただ止まる。

 

行動もせず、考えることもせず、感じることもしない。

 

ハートでもなければ頭でもない。

 

彼はただ薔薇と伴にいる。

 

これを、ヒンドゥー教徒はサットサングと呼ぶ。

 

 

 

 

 

 

 

いつであれ、そこに人間の薔薇がある時、

 

一人の覚者が、一人の導師がいる時、

 

人はただその人の許に止まる。

 

その人とともに在る。

 

ただその人と一緒にいるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

これをヒンドゥー教徒はサットサングと呼ぶ。

 

真理の許にあること、と。

 

サットサングという言葉は、真理の臨在の許にいるということを意味する。

 

 

 

 

 

 

 

薔薇があれば、それとともにありなさい。

 

 

 

 

 

 

 

微妙なものであれ、粗野なものであれ、

 

どんな行動も作り出さないことだ。

 

考えることは極めて粗野な行動だ。

 

感じることは微妙な行動だ。

 

 

 

 

 

 

 

だが、あなた方も知っているように、

 

感じることは思うことに変化し得る。

 

思うことは感じることに変化し得る。

 

二つは、交代可能だ。

 

この二つは、互いにそれほど離れていない。

 

感じることは、考えることへの途上にある。

 

 

 

 

 

 

 

おそらく、感じることは芽を出したばかりの種で、

 

考えることは木なのだろうが、

 

その過程は別物ではない。

 

ハートと頭は、そんなに離れたものではない。

 

物事はハートで始まる。

 

そしてあなたたちがそれに気づく前に、

 

それはたちまち頭に到達している。

 

 

 

 

 

 

 

ただともにありなさい……

 

そうすれば、すべてが明かされる。

 

そうすれば、すべての扉が開かれる。

 

どんな質問もなければ、どんな答えもない。

 

ただ真実とひとつになっているだけだ。

 

 

 

 

 

 

 

考えれば、離れている。

 

感じれば、それほど離れてはいないが、

 

まだ離している。

 

寄り添ってはいるが、まだ分離している。

 

 

 

 

 

 

 

考えるでもなく、感じるでもなく、

 

ただともに在るだけ。

 

と、突如として、そこに自分はいない。

 

そこに世界はない。

 

 

 

 

 

 

 

〈一なるもの〉が、ブラーフマが顕れる。

 

 自分と世界はひとつになっている。

 

 無限なるものが、無形なるものがそこにある。

 

そして、それこそが真理だ。

 

 

 

 

 

 

 

真理とは、哲学的な結論ではない。

 

それはある実存的な経験だ。

 

それは、思考でもなければ感情でもない。

 

 

 

 

 

 

 

それはあなたたちの全存在に

 

本来具わっているもの……

 

人はそれと一緒なのだ。

 

一滴の水が大海に落ちる時は、

 

頭と落ちようが、あるいはハートと落ちようが、

 

それは全面的に落ちる。

 

ハートも 頭も、何もかもだ。

 

 

 

 

 

 

 

善も悪も、何もかも。

 

聖人も罪人も、何もかも。

 

それは丸ごと落ちる。

 

 

 

 

 

 

 

聖人も〈神性なるもの〉を知ることはできない。

 

あまりにも善人であるため、その善が障害になるからだ。

 

が、また、罪人もそれを知ることはできない。

 

あまりにも自分を悪人だと思っており、

 

その、「あまりの悪」が障害になるからだ。

 

 

 

 

 

 

 

聖人でもなく、罪人でもない者、

 

これでもなくあれでもない者、

 

何ひとつ選ばなかった者、

 

自分はこれだとかあれだとか主張しない者、

 

ただ現存の中に止まる者が、〈神性なるもの〉を知ることができる。

 

 

 

 

 

 

 

ヒマラヤへ行く必要はない。

 

ただ岩と 一緒にいても、そのことは起こり得るからだ。

 

 

 

 

 

 

 

寺へ入る必要はない。

 

ただ木と 一緒にいても、そのことは 起こり得る。

 

 

 

 

 

 

 

その木のところまで行く必要すらない。

 

ただ自分自身とともにいても、そのことは起こり得る。

 

それは至る所にあるからだ。

 

 

 

 

 

 

 

あらゆる原子がそれとともに波動している。

 

あらゆる原子がそれを祝っている。

 

あらゆるものが、それに外ならないからだ。

 

 

 

 

 

 

 

’それについて、語り、また考えるほど、

 

真実から、遠く離れる。

 

 

 

 

 

 

 

語り、かつ考えることを止めるがいい。

 

そうすれば、知り得ぬことなど何ひとつない。’

 

 

 

 

 

 

 

無思考が扉だ。

 

無語が門だ。

 

無心が道だ。

 

 

 

 

 

 

 

いかにしてこれを達成するか。

 

これを達成するためにあなたならどうするか。

 

ただこれを聴いただけでは役に立たない。

 

マインドは利口すぎるからだ。

 

マインドはこのことについて、

 

 僧璨(ソウサン)が言っていることについて

 

考え始める。

 

マインドは考え始め、そのまわりに理論を紡ぎ始める。

 

マインドは言うだろう。

 

 「なるほど、これは正しそうだ」。

 

が、マインドが

 

「これは正しそうだ」

 

と言えば、もう横道に逸れて しまっているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

マインドは

 

「いや、これは難しそうだ。不可能だ。

 

  どうやって考えることを止めることなどできる」

 

と言うかも知れない。

 

 

 

 

 

 

 

それで、もう横道に逸れてしまっている。

 

マインドの言うことを聴いたら、決して真理には近づけない。

 

マインドの言うことを聴けば、人は常に旅に出ているのだ。

 

 

 

OSHO

 

 

 

 - Neither This Nor That -